【元祖1式】思考することを決めていたのは自分だった

前回のブログ更新から日にちが空きました。

少し忙しい日々を過ごしていました。

新しい勉強を始めてみたくなったりです。風邪もひいていました。

 

 

そんな中でも、できうる限り元祖1式思考停止を続けていました。

数週間の間に、新しい思考停止用アファメーションが浮かびもしました。

 

 

 

「過去なんてどうでもいい」

という録音アファを

ここ数日聞きながら内側を観察していたら

 

 

 

「他人のこと」「この世界のこと」

絶え間なく浮かび続けてくる思考・・

 

それらについて色々思考することを決めたのは自分だ

というアイデアが浮かびました。

 

 

 

思考にあまりに慣れすぎてしまって

勝手に浮かんでくるものの様に感じていますが

(当たり前の前提であるかのように)

 

実は、『思考を巡らすことも自分が決めた信念だ』

と言う感覚になったのです。

 

 

 

なぜ?

 

それは長い間

自分を小さな体だと信じ

この世界を真に受けて

 

常に警戒し、怯え

自分の生存や、幸せのために

 

考え、対策し、なんとかしなくてはいけない!

と自分自身に決め続けていたから。

 

 

 

 

もちろん、料理したり、外を歩いたり

必要最低限の思考は必要ですが

 

それ以上に

「なんとかしないと!」と

「思考しないといけない!」と

 

自分に強い続けていたのは自分だったのです。

 

 

 

 

思考が絶えず浮かび続けてくることは

もう当たり前の決まり事の様な感じでした。

 

でも、これも単に「信念」にすぎない

つまりは、自分で取り下げることができるということです。

 

 

 

 

だから

まるごと思考を全て止めることを

元祖1式思考停止では推奨しているので

当たり前のことかもしれませんが

 

自分にとって実感をともなった新たな、かつ大きな気づきでした。

 

 

 

思考停止した状態を感じる時間が

積み重なってきて

認識が変化しつつあるのだと思います。

 

 

 

 

上述のように

 

「なんとかしないと!」と

他人やこの世界のことを思考しつづける。

そうしなければ、怖くて不安でしょうがない。

 

それは「不足」以外の何ものでもないような気がします。

(「分離」などともいえるでしょう。同じことですが)

 

 

 

 

だから、コース(ACIM)や聖書でのJesusも

「他人を裁くな。裁かれないためである。」

と述べているのではないでしょうか。

 

 

 

「他人を裁くな=ゆるす」の「ゆるし」とは

 

「寛容なこころであなたの罪を水に流して忘れてあげましょう」

ということではなく

 

「そのできごとは起こっていない(=心の投影である)」

(ここには、もちろん「他人・からだ・世界」の存在も含まれます。)

 

なぜなら私たちは、分離・不足などありえない

全てが満ち足りた一なる永遠の存在だから。(=元祖1式思考停止状態)

 

 

 

自分で作り上げながら

「自分の身に起こっている!」と恐怖に怯えている夢から覚めることを

Jesusはコースを通して私たちに伝えているのです。

 

 

 

 

 

以前は、胸のあたりのもやもやが

漠然と居座っていて

 

それが何なのか分からないけれど

とにかくザワザワ苦しい感じや

怖さやイライラが込み上げてくる感じでしたが

 

 

思考停止を心がけ続けることで

その大きな黒い塊に思えていたものが

少しずつ解体されていくのを感じています。

 

 

 

潜在意識系の掲示板でどなたかが書いていました。

 

「手を離すのが怖い!と思っているけれど

 下はウレタンマットだから大丈夫だよ。」

 

「自分で考えない方がずっとスムーズに

 そして自分が考えていた以上に全てがうまくいく。」

 

「思考を止めることの恐怖に打ち勝った人は

 大きく飛躍する。」

 

 

そのことが

体感・実感として私のなかに染み渡っていっているのを感じます。