【元祖1式】vision『 私は自由だ。』

アメリカのオーディション番組AGTの動画を観ていて

ボロ泣きしまくっていたSです。

(そのうちの一つはこちら↓)

 


【和訳】亡き友人に捧げる一曲、サイモンも涙したジョシュ・ダニエルの予選 | The X Factor 2015 

 

 

素晴らしいですね。

私もこの方々の様に

"愛や内なる情熱を思い切り表現したい"

そんな風に思います。

 

 

今日も午前中、外を歩きながら元祖1式思考停止をしていました。 

 

実父が今年の中頃亡くなったため

その関係で色々と手続きが発生しているのですが

数ヶ月たった今もそれは続いています。

 

 

  

私は実家家族に関することになると

一番苦しさを感じる人生でした。

 

父の死によって、必要な手続きのために連絡が来たり

(悪い出来事ではなく、諸々の法的手続き。)

その中で、他の人に実家のことを話さなければいけないのは

 

私にとって心が揺れることでした。

 

 

 

昨日から、そして今朝もまた連絡がきていて

いつもの様に心が揺れかけていたのですが

 

ここしばらく元祖1式をしていたおかげで

心の平安をすぐにとりもどすことができました。

 

 

 

そんな状況で午前中、買い物がてら散歩しつつ

元祖1式思考停止をしていたのでした。

 

いつもは

「何も考えなくていい。神の完璧があらわれます。」

というアファを聞いていますが

 

今日は

私たちは体ではない。

をいつものアファの冒頭に付け加えました。

 

 

 

これは文字通り

 

・もう「体」としてのアイデンティティ(「我」「私」)を放棄していい。

・"惨めで苦しい思いをした"という過去の記憶を抱いている「体の子」

 というアイデンティティはもう放棄する。

 →個々別々の「体」ではなく、『一なる神の子』というアイデンティティだけでいい

・もう、心の投影に過ぎない他の体たち(他人)のことも、「体」を見過ごして

 真の姿(「神の子」「愛・光」)を見たい。

 

その様な思いからです。

 

 

 

そして、肉親や家族の記憶というのは特に

「体」としてのアイデンティティとして様々な思い・思考が湧いてくるものなので

 

父の死をきっかけに、

「体としての私たち」という記憶・思考・アイデンティティだけではなく

(体の)「死」も赦したい

  

そういう思いもありました。

 

 

 

父とは生前、葛藤も多い関係でしたが

それを後悔したり、自分を責める気もありません。

(父のことも、死を通して許しました)

 

むしろ、現象としては

私が彼の「死」を乗り越えることができるくらいに

世界を赦し、コース(ACIM)の学びや聖霊との結びつきを深められる

その時まで待っていてくれた様な気がします。

 

なかなか進めることができていなかった

コースのワークブックも終わりに差し掛かった頃

父は亡くなりました。

 

そこまで来ていなかったら

私は精神的にかなり落ちて大変だったと思います。

 

(その時に起こったvisionについては、改めて記事に書きたいと思います)

 

 

 

話しは午前中の思考停止に戻ります。

 

私たちは体ではない。何も考えなくていい。神の完璧があらわれる。」

 

私は短いアファメーションが好きなので

言葉の追加は珍しい方なのですが

 

今回は不思議としっくりきました。

むしろ「今後はずっとこれでいこう」と思えたくらい

私の心の中に染み渡っていきました。

 

 

 

ーここの所の1式思考停止の投稿記事と

 書いている内容は被りますが

 

 深い深い心の谷間に

 聖霊の思考システムを行き渡らせるというのは

 

 何度も繰り返しの傾向があっていいと思うので

 今後も同じ気付きを何度でも書いていきます。

 

 

 

歩きながら・・外の景色をながめる・・

 

そして心の中で色々な思考が駆け巡る・・

 

そうしながら、自分の心に伝えました。 

 

 

  

 ーすべて、私の心の投影にすぎないのだ。

  この体ですら、心の投影に過ぎず

  「一なる神の子である」という真実以外は

  存在すらしない。

 

 ー私の「心」が「主」であり

  私は「神の子なのだ」

 

 

神・神の一部である神の子は

全一であり、完璧で、永遠で不変(普遍)です。

すべてが在り、欠乏もない。当然、死もない。

 

すべてがあるので

 

誤創造によって

「ない(欠乏)」を創り出せてしまうほど

  

それほどに、私たちはすべてが在り

大いなる力をもっている。

 

 

 

そう再確認していたのでした。

 

 

 

それなのに、この世界の小さな歯車であるかのような

体として、常に何かに怯えながら

 

あれをしなきゃ、これをしなきゃ。

 

「他人」のことも、それすら私がつくりだした

映像の様なものに過ぎないのに

 

「生き抜くために」

判断したり、批判したり、ああしようこうしようと

常に思い巡らし続けている。

 

一体何をしているのだ?

 

そして、そんなおかしな思考をしていることに

当たり前になり過ぎて

それが自分であると信じて疑わなくなっている。

 

 

「映像」である世界は

私の心から出ていて、何の意味もない。

そこに意味づけしているのは私。

 

でも、本当の私は

そんなものとは関係なく

 

いまもこれからも、永遠に変わらず

神に愛され、抱かれ、歓喜の中にいる。

 

「死」もない。

今まで出会っては別れたようにみえた

全ての生命が、もちろん父も

 

変わらず、神に抱かれ

今この瞬間も一つに共にいる。

 

 

  

こうして

”こちらがわ(実相)”に意識を置いていると

穏やかになって

 

私は自由だ。

この世界から完全に自由だ。

 

そう言葉が浮かび

visionがみえたでした。

 

 

 

もちろん、

食事したり、会話したり

病院に行ったりすることもあるでしょう

 

普通に生活します。

 

『この世界から自由である』とはいえ

この世界で何もしないとか、何も起きないとか

そういうことではないのです。

 

 

 

Jesusは

磔刑にあいました。

 

それは、この世界で言えば

かなり極端で、かなり悲劇的なことですが

 

目覚めた人であっても

この世界の現象としてそのようなことは

起こり得るのです。

 

(コースやゲイリー レナード 氏の本の中で

 

 それはかなり極端な事例であるが

 本人はそれを理解・承諾し

 

 神の子としてのアイデンティティしか彼にはなかったため

 苦痛はなかったと記されています。

 

 つまり、夢の中で、自分は夢を見ているだけだと

 完全に目覚め、心は癒されていて

 神と一つだったのです。

 

 だから、夢の中で体は傷つけられ、殺されたが

 肉体的痛みもなく

 また、真の意味で傷つけられはしなかったし

 

 それを周りの人々の学びとしても

 示すために選んだ

 (そのため復活をした)

 

 とされています。)

 

  

 

 

私(たち)は、この世界から完全に自由だ

 

このvision の後も

「明日、誰々がきて家の(父の)手続きしないと・・ 」

など、やはり思考は湧いてきます。

 

 

それでも、今の私には

「神の完璧があらわれる」

「思考停止」

があるから

 

ハッと思考をやめて

穏やかで過ごすことができたし

 

これから、もっとその傾向が拡大していくと思います。