【日記】他の人への思いは自分自身への思いと同じ

 

先日、趣味にまつわるzoomミーティング後に

(パソコン越しで)初対面の2人に「○○(某SNS)で繋がりたい」と言われました。

  

そのSNSはもう2年ほどアカウントも持っておらず

私の周りでも利用している人がおらず

そのように言われることもなかったので

 

迷ったのですが

 

「こういうこともまだあるのか・・」と

利用する気はないがアカウントだけ作成をしました。

  

結局、同姓同名の方が多く検索で探せなかったため

その理由を伝えて、繋がりをお断りしました。(アカウントも削除)

  

しかし、ずっと胸のあたりがザワザワして気分が悪くてしかたがありませんでした。

 

   

そんなザワザワ・イライラが2、3日程おさまらず

紙に色々理由を書き出してみました。

 

元々その某SNSがあまり好きではなかったのが

理由にありますが

 

こういったことは

SNSだけではなく、リアルでの人との関わり方・あり方と

同じことなので、改めて自分のスタンスを明確にしようと思ったのです。

  

 

「私は本当の自分を表現しているだけでいい。」

「私は楽しくしているだけでいい。」

「自分を信じて(自分とつながって)自分に従ってください。

(私や、他人や、外側じゃなく)」

「自分に問いて、自分を大切にしてください。(それしか言えないし)」

 

etc

 

色々書き出しました。

改めて自分のスタンスを再確認・明確してすっきりしました。

 

 

以前の私は、さほど楽しくないけれど

周りがみんな利用していてしょっちゅう聞かれるため(某SNS最盛期)

また外国の友人達がみんな使っていたため

自分も利用していたこともあります。(海外在住経験あり)

  

ただ、今の私はそこまでして人と繋がりたいと思えないのです。

  

 

   

「(人に言われたから)とりあえず・・」

  

といって、大して好きでもない人(方向性の違う人)と繋がることに

何の価値も見出せなくなっていました。

   

そんな自分の気持ちや価値観の変化に

対応できていない自分がいたために違和感が湧いていたのです。

  

(相手が本当に気が合って楽しくて、連絡手段が限られていたら

 利用していたかと思います。)

 

   

 

自分が成長・変化し

自分自身が軽く明るくなるほどに

 

付き合う人、関わる人、気が合う人が変化するのは当然です。

 

それまで共にいられた人、繋がれた人が

たとえ浅い関係であっても繋がれなくなるというのも当然です。

 

それはとても良いことではないでしょうか。

 

 

しかし私達は、

子供の頃から「みんな仲良く」と言われ

 

特に日本では、大人になってからも

「周りに合わせるために自分を抑える」

といったことが求められます。

 

子供の頃や、学生時代は

たまたま、地域が同じだった・学年が同じだった

それだけで共に集い遊ぶこともできるかもしれませんが

 

大人になって、それぞれの道や生き方を歩む人ほど

子供時代のようなことは到底できません。

 

自分だけでなく、周りも個性をより強く帯びてきます。

 

 

最近の自分は

過去に他人や外側から取り入れた、(自分にとって)不要な価値観というものを

どんどん手放しており

 

時を重ねるほどに自分の本心に気付いてクリアになっているので

余計にそうです。

 

 

「誰とでもそつなく仲良くなれた自分はもう卒業した」

「私は、本当は大勢で何かやるのが苦手」

「精神的に自立した人とだけ共にいたい」

「波長が合う人とだけいられればいい。付き合う人はきちんと選びたい」

「一人の時間が大切」

「距離感を保てない人・馴れ馴れしい人は無理」

「(友人以外は)その時、その時のサラっとした関係性を大切にしたい」

 

 

友達に恵まれた人生を送ってはきたのですが

自分の本質を振り返ってみると

  

冷静で、適度な距離感をもって人と関わることを好んだり

一人でいることが苦ではないどころか、大切だと思っている自分に

年々気づきました。

  

  

  

またここ数年ほどは

コース(ACIM)の学びが進んでいるのも

人との関わり方が大きく変化した理由です。

 

 

なぜ人は、そんなに他の人と繋がりたがるのでしょうか。

 

それは、自分の不安や焦り、恐れを埋め合わせるためというのも

あると思います。(すべての人ではありません)

 

人ととりあえず繋がることで、なにか安心を得られた様な、気が紛れるような

楽しそうな人とはとりあえず繋がっておきたい思いがするのかもしれません。

(それが日常的な習慣となっている)

 

 

ただ、コースなどを通して自分自身と繋がる様になると

そういった心のありようが無意味なことに思えてくるのです。

 

 自分自身と繋がること・本当の自分を生きること

  =神の子としてのアイデンティティ

 

 シンクロニシティ

 内側からのひらめき・インスピレーション・直感(直観)

 楽しく情熱が湧く様な感覚

 に従う生き方

 

 自分の外側は自分が作り出している幻想・夢であり

 自分がこの夢の作り手だ

 という認識

 

 内なる安心(完璧・神)に委ねるあり方 

 

へ段々シフトしていくのです。

 

 

(内側が)満ち足りている人は、求めることがありません。

もちろん普通に食事をしたり、服を買ったり、仕事や社会活動をしたり

溢れる幸せや歓びを表現しますが

  

「欠乏感・不安感・無価値感」から

それを埋めるための行動がなくなっていきます。

   

自分の内側のありようの反映として

物事が起こるままを許しているからです。

 

  

自分を「体」であると思えば

この世界で、他人や世界に対して一所懸命何かを求めるのは当然かもしれません。

私もかつてはそうでした。

 

 

コースというのは、

そういった「体」としてのアイデンティティ

それをリアルにするためにエゴが作り出している「(体を含めた)世界」という幻想の

実在を放棄するためのものです。

 

(エゴは、自分の生き残りのために、私たちに「体」だと思わせるためには何でもする)

 

 

昔の私なら

「私も、辛いとき、苦しいときあるかもしれないし・・

 そういう時のために

 助け合えるかもしれない。慰め合えるかもしれない。」

 

という思いから、乗り気でなくでも

他の人からの「繋がり依頼」を受け入れたかもしれません。

(今回の方々は、そういうところがあったと思うのです)

 

しかし今の私にはどうしても

それができませんでした。

イライラして、胸のあたりが気持ちが悪くなりました。

 

「もう私はそこにいるのではない」

私の心と体が、正直に教えてくれたのです。

 

 

これはコースに基づいたあり方

・自分自身も他の人も、無限の可能性・無条件の愛でみるし

・今後、苦しいことがあっても私はそれを「赦して」いく

ということです。

 

そして、もし個人的に付き合うとしたら

私と同じ思いで、この世界や自分自身や他の人のこともみている

前向きで明るい人々と共にいたいし

 

もうそれしか今の私にはできない

という思いです。

 

 

今の私は

私自身含め、すべての人が

無条件の愛・無限の可能性をもった一なる神の子(神性)だ

と知っています。

(もちろん、私とSNSで繋がりたいと言ってくださった方々も)

 

だからこそ

もし誰かが、自分を卑小で惨めな存在だという思いから

すがってきたり、依存してきたり

そのような行動をとってきた時も

 

愛を持って断ること

 

(Jesusは「通り過ぎるものであれ」と伝えています。注1

  

それもとても大事なことだと思うのです。

  

 

 

中には

自分自身のことを低く思っている人を、

自分の虚無感を埋める相手として必要としていたり

お金を得るために必要な相手として手放さないような

人々もいるかもしれません。

 

しかし、コースは

他人の中の「罪」(自己卑下・罪悪感・無価値感)をも見過ごして

本質をみるべきだと伝えています。

 

他の人の内なる「罪」の表現の一端をになって

相手をすることはできないのです。

  

それは

"相手を信じている"ということ

"あなたは愛であり神であり素晴らしい存在だと知っている"

ということです。 

 

  

そのような「赦し」が進めば

相手の「欠乏感・無価値感・罪悪感」を認知することもなくなります。

 

それは自分の中の「罪悪感」が解体されているということです。

  

 

無意識はつながっているので

結果は見えなくとも、相手の心にもどこかで伝わります。

 

だから、自分の心が癒されているということは

自分にも、周りにもとても大切なことなのです。

自分の持ち場(自分の心の癒し)に集中するのです。

 

 

これは

好きなこと・好きじゃないこと(無関心)の両方を

正直に「本当の自分を表現する」

ということでもあります。

 

私が正直な心から自分を表現していなければ

周りの人も、正直な私から必要なギフトを受け取ることができなくなります。

(行動面や表層意識上で、受け入れる・受け入れないの選択は相手の自由)

  

私が自分に嘘をついて立ち振る舞っていたら

自分の気持ちに嘘をついた結果は

また自分に返ってきて、繰り返されることにもなります。

 

人は、愛か恐れか

どちらかしか選べません。

 

 

コースのレベルでいえば  

自分の体を含め、他の人(他の体)は実在しないのです。

  

自分の中の罪悪感が外に投影され、他の体を「罪」ある様に見ているだけであり

他の人の「罪」を取り消し、実在しないと赦せば

 

それはそのまま

自分の中の、神から分離したことへの罪悪感を解体しているのと同じことになるのです。

(罪は本当はないのに恐れを抱いている)

 

 

他の人を何者と見るかは

そのまま、自分をどう見るかにつながっている。 

 

  

今回、自分が気が進まない他の人からの依頼を

妥協なく断ることの大切さを改めて明確にして分かったのは

  

「もう、私はコースの赦しで生きていく」 

という決意です。

 

むしろ、「もうそれでしか生きていけない」という感覚かもしれません。

 

そして

このように自分を改めて再確認し、気づかせるきっかけになってくださった方々に

心から感謝しました。

 

 

(注1:「不死というあなたの現実」(ゲイリー レナード 氏著)P240

 パーサによるトマスの福音書 42項より)