【言霊】「私は愛されている。守られている。大切にされている。」

一つ前の記事を書き終えたあと

買い物に出かけました。

  

その時々で、自分が必要だと感じるアファメーション

音声にしてリピート再生で聞くのですが

(思考停止の時は思考停止用のアファを聞く)

 

今日は

「私は愛されている。守られている。大切にされている。」

でした。

 

 

 

私の中にはふと

「私は愛されない。愛される価値がない。」

という信念・感覚が浮かんでくる時があります。

 

 

これは、ありとあらゆる不足感や欠乏感も

含めた意味です。

 

 

 

本来私たちは

神の一部であり、永遠で普遍(不変)ですべてが「ある」

そんな存在なのですが

 

「自分は体だ」というこの夢の世界では

「自分は体だ」とみなしている限り

ありとあらゆる不足や欠乏を感じています。

 

世界自体がそのようなもので溢れて構成されている感じですよね。

 

 

愛されたいから

自分には力がないから

価値がないから

お金がないから

魅力がないから

いい仕事がないから

 

頑張らないと

何かしないと

なんとかしないと

自分はダメなんだ・・・

 

 

そのようなことです。

 

 

 

私達の「現実」とは

神の一部である私たちが

神から「分離した」と勘違いしている夢のようなものです。

 

その夢の人生において

ありとあらゆる形や違いのある

「欠乏」や「不足」(恐れ)を感じている、

 

そんな私たちが求めているのは

結局のところは

神の愛であり、それは無条件で永遠の愛とも言えますが

本来の自分自身の姿なのです。

 

 

私たちは、神の一部・神の子供であるが故に

神と同じ創造の力を持っており、

それを「分離した」という罪悪感をもとに

誤創造(=この世界・体の自分)の夢をみているわけです。

 

(本当はいまも全生命が神と一つであり、永遠に愛されている。

 分離など起こっていない。故に創造の力もそのままにある。)

 

 

私たちは、神と同じ力(創造の力)があるので

本来の私たちにはあり得ない「ない・不足・欠乏」という夢を

見ることができるくらいなのです。

 

 

過去の記憶を元に自分を規定してしまえば

延々と自分は不足だらけに感じるでしょう。

   

自分にはあれが足りない・これが足りないと

追いかけ続けなければならない。

  

 

  

それは、自分の中に不足・欠乏感があるから

その様な人生(夢)を自分で作り上げてしまうのです。

 

 

 

本来、外側の現象はなんの意味もなかったのですが

あまりにも知覚がリアルであるが故に

  

自分が「不足・欠乏」とみなし続け

そのサイクルが続く。

 

本当は「過去」など存在しないのに

それがさもあるかの様に

 

私たちの心の内側で温存させ続けるためにも

エゴは「過去の記憶・イメージ(という幻)」というものをも

作りだし利用する。

 

  

 

エゴの作り出している「過去」という

幻想を今心の中で繰り返し続けてしまうサイクルを

やめて方向転換するには

 

今この瞬間、毎瞬毎瞬

自分にとっての新しい選択をするのです。

 

 

(なお、この世界での「いいこと」も

 「悪いこと」「ないこと」の裏返しだったりもします)

 

 

  

本日

「私は愛されている。守られている。大切にされている。」

というアファを聞きながら

 

外を歩いていると

様々な記憶が甦ります。

 

 

 

昔の苦しかった思い出や、辛かったことや・・

 

様々な問題の形をとっていた様に思えることが

実は「愛(神)がない」という

欠乏感からきていると気づいているいま、

 

 

目の前で流れていく現状(現象・光景・自分の体)も関係なく

 

「私は愛されている。守られている。大切にされている。」

 

と宣言・採用し続けました。

 

 

 

状況は何も変わっていない様に思えても

状況や外界に対する『自分の心の反応』を変えるのです。

 

前はAという状況に出会うと、不足感や恐れの反応をしていたところを

外的状況や起こる現象は一切関係なく

 

「私は愛されている。守られている。大切にされている。」

と心の中で宣言・採用し続けるのです。

  

 

 

それが本来、事実なのですし

 

「今この瞬間の」自分の心のありようが

世界を作っているのですから。

 

 

 

「愛(神)」は

外を探しても存在しない。

 

なぜなら、外の世界は(自分の体も含め)

私自身の心の投影に過ぎないから。

 

鏡に映る自分をなんとかしようと鏡に求めても

しょうがないのと同じです。

 

 

 

自分の心が先・「主」であり

 

世界や現象は後・「従」で

流れてきては消えゆくだけのものなのです。

 

 

 

「外側は関係ないんだ。

 今、何が起きているように見えようが 

 すべて、愛は私の内側にある。私が愛なんだ。」

  

 

 

自分の心が映写機であるような

全て自分の心から世界が広がっている様な

そんな感覚を覚え

 

「もう、外側に振り回される「私」でなくていい」

 

安心が内側から感じられました。

  

 

 

これは

 

今までは、「現象」という混沌のさなかにいた自分が

 

それら全てを上から見下ろしている様な 

別の安全な足場から全てを眺めているような感覚(俯瞰・観察)

でもありました。

【日記】「良くない」ような出来事が起きた件

2021年になりました。

喪中ではありますが、昨年お世話になった方々には感謝し

今年も自分らしい1年にしていこうと思います。

 

  

 

また、こちらのブログは

自分の自己表現ために好きに自由に書き綴っているものではありますが

 

何かのご縁により

目に留まって読んでくださっている方がいるとしたら

その読者様にも感謝とともに

本年も良き年になりますようお祈り申し上げます。

 

 

 

さて今回記事の本題ですが

 

先月(2020年12月)途中から

年末に向けて元祖1式をやり続けるつもりだということを

記事にもしてきました。(参照:当ブログ 元祖1式思考停止カテゴリー

 

 

  

順調に穏やかに過ごせているかの様に感じていましたが

 

年末に急にエゴ的には「良くない」と判断できる様な出来事が

発生しました。

 

 

  

具体的には

親族が、私にも関わる事柄で詐欺契約をされかけた

ということなのですが

  

その親族は対外的な交渉ができる状態にないので

このことは私が色々動くことになりました。

 

これについての処理を進める中で

合間を見ては思考停止をすることをつとめたり

この世界の真理や、自分の真実を思い出す様にしていました。

 

(世界・現象は私(エゴ)が作り出した夢の様なもので

 私の心の中を象徴しており

 私の本質は神の愛・光で傷つき得ないこと)

 

  

  

私の場合、普段の習慣として

 

・思考停止を進めるとともに

・時々、思考停止からは降りて

 自分の観察をしながらブレインダンプ(書き出すこと)もしますので

 

この出来事をとおして自己観察も行い

改めて今までの自分の癖・要らぬ信念・パターンが見えてきました。

 

 

 

私の要らぬパターンとは

過去の生育環境(生来の家族環境)の中でもそうだったのですが

「自分のことは後回しにして周りの人を助けないといけない」

というものです。

 

特に人生の前半はそのようなものでした。

 

 

  

(「パターン」「不要な信念」は

一言では言い表せられるものではなく

 

大抵はそこに更に他の信念がつながっているものなのですが

今回ここでは詳しく説明しません。)

 

 

 

もうそれは終わりにして

 自分の人生を生きること。

 

そのための一環として、思考停止をしている時に

詐欺事件のようなことが親に起きて、私が動くことになったのです。

(いわば、同じ様なパターンです)

  

 

  

親族が結んだ契約で、私の名前も入っているものだったため

私自身が相手と直接的にやりとりをしてきたのではないですが

 

過去に数回やりとりした中で

『もし私だったら、この様な人間とは初めから一切関わらないし縁を切る』

という思いがありましたので

  

ここで大きな問題がでたことは

とてもいい機会だとも思ったわけです。

 

 

 

  

そして

 

自己犠牲的な観念で生きている世界から

もう縁を切って、自立する

 

ということの象徴でもあると感じられました。

 

 

 

もちろん、形而上的なレベルで見れば

こういった登場人物も、現象も、この世界や宇宙自体も

私が作り出している自作自演のようなものといえますが

 

ゲイリーレナード氏の本でも

赦しはそれが起こったレベルでなされなければならない

とあります。 

  

   

今回起きた現象に対処すると同時に

心の中では赦し・思考停止をする必要があるということです。

 

  

  

『 生まれた時から

  まるで自分が犠牲者であるかのように

 

 「自分のことは後回しにして周りの人を助けないといけない」

 

  という人生の設定を組み込んで

  この生という夢を生きてきたのですが

  (それが真実でリアルであるように)

 

  その設定・夢を取り消すことができるのも

  私自身(聖霊とともに)だということを

  忘れないようにする   』

 

 

 

この思いだけでも

 

現実的に様々な処理をしている際も

その智識がなかった時と比べたら

 

心的ストレスは非常に、比べ物にならないほど少なく

平静でいられるのです。

 

 

  

 

もちろん、こういったことは

現に様々な悩みを持っている他人に言うことではありません。

 

人が悩んでいるときに

「それもあなたが作っているんだよ」など

言われたらとても腹立たしいことでしょう。

 

 

人が真実を求めているときに

このようなことを伝えればいいわけです。

 

 

 

私は、こういった形而上的智識・智慧に出会えたので

 

淡々とこの世界の生活を生きつつも

 

心の中では、そういった心のありようを選択して

進んでいくだけです。

 

 

 

赦しの結果は、期待するものではなく

例えそれを見ることができなくても

淡々と行うもの

 

とゲイリー氏の本にもありますが

 

自分の心が平静でいられるという

素晴らしい恩恵がこの世界のレベルの経験で得られるだけでも

 

赦し・コースの学びを

実践する価値があるでしょう。 

 

 

 

これは元祖1式実践者の方々も

よくおっしゃっていることです。

 

「思考停止をしている状態そのものが幸せなので

 結果がどうこうとかどうでもよくなる」と。

 

それが、真に「赦し」(=1式思考停止)がなされている状態

ではないでしょうか。

 

 

 

 

コース(ACIM)とともに生きる今の私にとっては

 

この世界で起こることの全てが

『赦し』のためにあるのだということを

 

改めて忘れないでいきたいと思います。

 

 

 

 

 

【元祖1式】vision『 私は自由だ。』

アメリカのオーディション番組AGTの動画を観ていて

ボロ泣きしまくっていたSです。

(そのうちの一つはこちら↓)

 


【和訳】亡き友人に捧げる一曲、サイモンも涙したジョシュ・ダニエルの予選 | The X Factor 2015 

 

 

素晴らしいですね。

私もこの方々の様に

"愛や内なる情熱を思い切り表現したい"

そんな風に思います。

 

 

今日も午前中、外を歩きながら元祖1式思考停止をしていました。 

 

実父が今年の中頃亡くなったため

その関係で色々と手続きが発生しているのですが

数ヶ月たった今もそれは続いています。

 

 

  

私は実家家族に関することになると

一番苦しさを感じる人生でした。

 

父の死によって、必要な手続きのために連絡が来たり

(悪い出来事ではなく、諸々の法的手続き。)

その中で、他の人に実家のことを話さなければいけないのは

 

私にとって心が揺れることでした。

 

 

 

昨日から、そして今朝もまた連絡がきていて

いつもの様に心が揺れかけていたのですが

 

ここしばらく元祖1式をしていたおかげで

心の平安をすぐにとりもどすことができました。

 

 

 

そんな状況で午前中、買い物がてら散歩しつつ

元祖1式思考停止をしていたのでした。

 

いつもは

「何も考えなくていい。神の完璧があらわれます。」

というアファを聞いていますが

 

今日は

私たちは体ではない。

をいつものアファの冒頭に付け加えました。

 

 

 

これは文字通り

 

・もう「体」としてのアイデンティティ(「我」「私」)を放棄していい。

・"惨めで苦しい思いをした"という過去の記憶を抱いている「体の子」

 というアイデンティティはもう放棄する。

 →個々別々の「体」ではなく、『一なる神の子』というアイデンティティだけでいい

・もう、心の投影に過ぎない他の体たち(他人)のことも、「体」を見過ごして

 真の姿(「神の子」「愛・光」)を見たい。

 

その様な思いからです。

 

 

 

そして、肉親や家族の記憶というのは特に

「体」としてのアイデンティティとして様々な思い・思考が湧いてくるものなので

 

父の死をきっかけに、

「体としての私たち」という記憶・思考・アイデンティティだけではなく

(体の)「死」も赦したい

  

そういう思いもありました。

 

 

 

父とは生前、葛藤も多い関係でしたが

それを後悔したり、自分を責める気もありません。

(父のことも、死を通して許しました)

 

むしろ、現象としては

私が彼の「死」を乗り越えることができるくらいに

世界を赦し、コース(ACIM)の学びや聖霊との結びつきを深められる

その時まで待っていてくれた様な気がします。

 

なかなか進めることができていなかった

コースのワークブックも終わりに差し掛かった頃

父は亡くなりました。

 

そこまで来ていなかったら

私は精神的にかなり落ちて大変だったと思います。

 

(その時に起こったvisionについては、改めて記事に書きたいと思います)

 

 

 

話しは午前中の思考停止に戻ります。

 

私たちは体ではない。何も考えなくていい。神の完璧があらわれる。」

 

私は短いアファメーションが好きなので

言葉の追加は珍しい方なのですが

 

今回は不思議としっくりきました。

むしろ「今後はずっとこれでいこう」と思えたくらい

私の心の中に染み渡っていきました。

 

 

 

ーここの所の1式思考停止の投稿記事と

 書いている内容は被りますが

 

 深い深い心の谷間に

 聖霊の思考システムを行き渡らせるというのは

 

 何度も繰り返しの傾向があっていいと思うので

 今後も同じ気付きを何度でも書いていきます。

 

 

 

歩きながら・・外の景色をながめる・・

 

そして心の中で色々な思考が駆け巡る・・

 

そうしながら、自分の心に伝えました。 

 

 

  

 ーすべて、私の心の投影にすぎないのだ。

  この体ですら、心の投影に過ぎず

  「一なる神の子である」という真実以外は

  存在すらしない。

 

 ー私の「心」が「主」であり

  私は「神の子なのだ」

 

 

神・神の一部である神の子は

全一であり、完璧で、永遠で不変(普遍)です。

すべてが在り、欠乏もない。当然、死もない。

 

すべてがあるので

 

誤創造によって

「ない(欠乏)」を創り出せてしまうほど

  

それほどに、私たちはすべてが在り

大いなる力をもっている。

 

 

 

そう再確認していたのでした。

 

 

 

それなのに、この世界の小さな歯車であるかのような

体として、常に何かに怯えながら

 

あれをしなきゃ、これをしなきゃ。

 

「他人」のことも、それすら私がつくりだした

映像の様なものに過ぎないのに

 

「生き抜くために」

判断したり、批判したり、ああしようこうしようと

常に思い巡らし続けている。

 

一体何をしているのだ?

 

そして、そんなおかしな思考をしていることに

当たり前になり過ぎて

それが自分であると信じて疑わなくなっている。

 

 

「映像」である世界は

私の心から出ていて、何の意味もない。

そこに意味づけしているのは私。

 

でも、本当の私は

そんなものとは関係なく

 

いまもこれからも、永遠に変わらず

神に愛され、抱かれ、歓喜の中にいる。

 

「死」もない。

今まで出会っては別れたようにみえた

全ての生命が、もちろん父も

 

変わらず、神に抱かれ

今この瞬間も一つに共にいる。

 

 

  

こうして

”こちらがわ(実相)”に意識を置いていると

穏やかになって

 

私は自由だ。

この世界から完全に自由だ。

 

そう言葉が浮かび

visionがみえたでした。

 

 

 

もちろん、

食事したり、会話したり

病院に行ったりすることもあるでしょう

 

普通に生活します。

 

『この世界から自由である』とはいえ

この世界で何もしないとか、何も起きないとか

そういうことではないのです。

 

 

 

Jesusは

磔刑にあいました。

 

それは、この世界で言えば

かなり極端で、かなり悲劇的なことですが

 

目覚めた人であっても

この世界の現象としてそのようなことは

起こり得るのです。

 

(コースやゲイリー レナード 氏の本の中で

 

 それはかなり極端な事例であるが

 本人はそれを理解・承諾し

 

 神の子としてのアイデンティティしか彼にはなかったため

 苦痛はなかったと記されています。

 

 つまり、夢の中で、自分は夢を見ているだけだと

 完全に目覚め、心は癒されていて

 神と一つだったのです。

 

 だから、夢の中で体は傷つけられ、殺されたが

 肉体的痛みもなく

 また、真の意味で傷つけられはしなかったし

 

 それを周りの人々の学びとしても

 示すために選んだ

 (そのため復活をした)

 

 とされています。)

 

  

 

 

私(たち)は、この世界から完全に自由だ

 

このvision の後も

「明日、誰々がきて家の(父の)手続きしないと・・ 」

など、やはり思考は湧いてきます。

 

 

それでも、今の私には

「神の完璧があらわれる」

「思考停止」

があるから

 

ハッと思考をやめて

穏やかで過ごすことができたし

 

これから、もっとその傾向が拡大していくと思います。

 

 

【元祖1式】だからどうした "So what!"

昨晩眠りにつく前に

元祖1式思考停止アファをリピート再生しながら目を閉じて

自分の内側の感覚を感じていた。

 

次々と思考が浮かんでくる。

 

それをかわせば楽だし

それに乗っかれば苦しくなる。

 

 

  

そして気付いたこと。

 

①私はいかに「我慢」や「愛されない」という

エゴによる人生の嘘の脚本(生まれた時から)を

リアルにし採用し続けていたかということ。

 

そしてそれが、単なるこの思考によるものでしかない

ということ。

 

思考停止をすると

あまりにリアルで、のめり込みすぎていた脚本から

少しずつ、少しずつ、足が遠のくというか

 

俯瞰の視点、洗脳が覚めていく様な・・

そういう感覚が起こってきて

 

より自分のことを客観的にみて振り返ることができるように

自然になっていると感じる。

 

本来の私たちは

この宇宙に収まり切れないほど、大きな存在である

ということへの体感が広がるのだと思う。

 

まるで太陽の光を遮っていた霧が消えていくような感じだ。

 

(まだまだ、こんなにも苦しい役にはまっていたのか・・と少し驚く)

 

 

 

②体に関する心配や考え事も

しょっちゅう思いめぐらしているということ。

 

「ここが痛い・・きっと○○だからだ・・△△しなきゃ・・」

 

例えば、腕が痛い・脚が痛いと感じたときに

「あの時からずっとこんなことしたからだ・・」

「あれが原因なんだ・・」

「なんとかしなきゃ・・」

  

と、もう存在しない過去を

自分の中で自ら反芻し続けて

リアルにしている。

 

もちろん、薬や病院へいくなど

然るべき処置をすることは大切だ。

 

マインドの部分としては

 

時間の連続性は本来ないのだが

こういった心(エゴ)のトリックが

 

まるで時間が連続していて、

自分は過去の続き・積み重ね・結果でしかないように

思わせているのだ。

 

体に関しても同じだと気づく。

 

 

 

③すべては自分の内側から出ている。

 

だから、撮影済みである映像にすぎない

現象・結果に反応しつづけてもしょうがない。

  

それは、放っておけば毎瞬消えて変化していくものだから

自分の内側の神聖さにフォーカスし、保ち続けていれば良いのだが

  

(川の中で上流側を向いていて

 上から勝手に現象が流れては通り過ぎていくイメージ  *時間は未来から過去へ

  

外側の事象(体も含む)に反応し続けて

同じ様なパターンを延々と続けさせようとエゴ(思考)はする。

  

(ある出来事が起こり、落ち込んだとしても

  

 それは、少し前の自分の心の内側の結果で

 瞬間瞬間に消えていくだけのものなのだから

 

 いま、この瞬間に

 真実=私は素晴らしい存在・不変(普遍)で傷つき得ないスピリット

 ということを持ち続ければそれで良いだけなのだ。)

 

あくまで自分のいまこの瞬間の内側が「主」であり

外側(自分の体を含む)は「従」(影の様なもの)にすぎない

 

だがそれが、逆転した無力な存在であるように

エゴは私たちに思わせようとする。エゴ自身の存続のために。

  

Basharは外側で何が起ころうと

「So what!?(だからどうした!?)」と言っている。

 

 

  

④ ①の続きといえるが

 

「我慢」「愛されない」「自己犠牲」という

エゴの脚本の洗脳が薄れてきたことで

  

『私は(神に)愛されている。』

 

"そこにもっとフォーカスして感じて浸って欲しい"

という思いが自然と湧いてきた。

 

 

 

 

これからも

淡々と思考停止アファは続けていく。

 

 

 

今後への意識としては

 

●「我慢」「自己犠牲」「愛されない」

 というような反応をし続けていた自分にもっと気付きやすくなったし

 

私は体ではない」という意識も

 これからはもっとフォーカス・気づいても良いと感じた

 

 (体の痛みなども、思考停止で心で反応しないと軽くなったりする。

 これは瞬間的なだけではなく、長期的にやれば

 大きく変わるのではないだろうか?

 ↑「病は気から」にもつながること)

 

「私は(神に)愛されている」「私は素晴らしい」

 ということにも、もっと積極的にフォーカスして良いと思う。

 

 実際、私は素晴らしいのにどうしてこんなに我慢や自分を抑えたり

 否定ばかりしてきたのだろう?と

 

 ふと不思議に思えてきている。

 

 (思考停止で他人や世界への(自分の)反応を

 遠い過去の記憶であっても跳ね返して、『神の完璧』に浸ると

  

 "どうしてこんなどうでもいい薄っぺらなものに惑わされ

 大切な自分を抑え苦しんでいたのだろう?"と

 

 思えてくる。

 

 

 

 

【元祖1式】「他人」という幻想を無・光へと還す

一つ前の記事の元祖1式思考停止手記にも書いたが 

  

acimsjb.hatenablog.com

 

  

いかに自分が色々思考しているかが

痛感させられている。

  

 

 

他の人はどうなのか知らないが

特に私は、他人のことばかり考えていると感じた。

 

いま、目の前にいるわけでもない人を

ジャッジする思考を反芻ばかりしている。

 

  

 

過去にこんなことがあったから

こんなこと言われたから

昨日こんなことをあの人が言っていたから

 

こんな風に対処しなくちゃ

こうしなきゃ

それはこう思う

 

と、作戦会議みたいなことを延々としている。

 

 

 

改めて思考停止状態で俯瞰すると

何ともアホらしい。

 

そう思えるのは、もう自分が

この世界や、過去の記憶というものを

リアル・実在だと思っていないからだと思う。

 

かつ

「自分がその夢の様なこの世界・現実の作り手だ」

という心の立ち位置に移行していっているからだと思う。

 

  

 

自分を体でしかないと思っていた時は

(エゴ・思考は、そう思わせるためにこうして延々と仕掛けてる)

 

次々浮かび上がる思考や記憶が

あまりにリアルで

 

それを止めたり、手放すなんてとんでもない!

恐ろしいことだ!もっとひどいことになる!やられるぞ!

何とかしないと!備えろ!警戒しろ!

 

という、これまたエゴの脅しともいえる叫びに乗っかっていたのだ。

 

(1さんの思考停止に過剰反応していた人々と同じこと)

 

  

 

私の思考停止アファはいくつかあるが

 

「何も考えなくていい。神の完璧があらわれる。」

 

というものを使っている。

 

  

 

次々に浮かんでくる他人の存在・姿をした思考・・。

 

そこに自分の罪(罪悪感)を投影して、他人という映像に罪をみて利用しているのだ。

 

でも、そんなもの捨てても構わない。

今の私はそう分かっているから

 

 

 

コースでいえば

私も他の人たちも体ではない。

一なる神の子。

 

他人をそうみることで

自分の心も癒されていくということ。

  

 

 

何も考えなくていい。神の完璧があらわれる。

 

 

延々と沸き起こる

「他人」にまつわる思考に対して

心の中で繰り返す。

 

  

 

これは

神の完璧として

その相手を体ではなく、光で取り消している感じがする

ということに、先ほど気づき

 

コースの赦しと同じとして

続けていけばいいのかもしれない。

 

そう思った。 

 

 

 

*******

 

1さんが、思考停止を紹介したときに

たくさんの人から激しい抵抗にあったのだが

 

実は、私自身にもそういう体験があった。

 

匿名でネットに何気に1さんのまとめリンクを紹介しただけだが

それでも、反発にあった。

 

それほどに、人はエゴを手放すことをおそれているのだ

(というかエゴの恐れのサイクルに乗っかり続けている)

 

 

いま、正直私は思考停止状態が進むほどに

自我・エゴ・思考で人生を何とかしようと

「頑張っている」「力んでいる」人とは

 

自然と波長が合わなくなり

あえて関われなくなってしまった。

 

1さんも、かつては潜在意識という考えに出会い

エゴ(顕在意識と1さんは呼ぶ)でなんとかしようとしていたが

 

結局「思考停止がいい。両方知って、こちらが真の幸せと分かった。」

と書いていたが、相当な反発にであっていた。

 

潜在意識・引き寄せ云々界隈であっても、それで「頑張っている」ところに

「思考停止」のあり方を伝えても

 

反発しか起こらない、何を言ってもどうしようもないのは

私も体験で十分知っているので

 

(きっかけが1式思考停止ではなくとも)

「委ねる」あり方の大切さを知っている人とだけ

自然と共にいたいような感覚になってきた。

なんとなく。

 

 

どちらが良い・悪いではないが

これは人の人生・あり方すべて根本として、とても大きな選択肢で

 

私は自分の選択した道をこれからも進んでいくので

もっとそれが(住み分け?)、分岐のように明白になっていくと思う。

 

【元祖1式】手記 2020/12/19

相変わらず、元祖1式思考停止を続けている。

今年もあと2週間弱だが、その間ずっと続けてみるつもりだ。

 

起こる現象がきっかけで心が苦しくなった時、

あえて思考停止から降りて、自分の気持ちを正直に振り返ってみたりしつつ

また思考停止に戻ったりすると

大きな気づきが起こる。

 

心が苦しくなっても、それも思考停止するという方法もあると思うが

 

今の私は臨機応変にやっている。

 

 

 

思考停止をしていると

思考している自分が、現実をつくっているというのが

俯瞰して見える様な感覚になる。

 

「あ・・こんなこと考えたり、反応していたら

そりゃ、ずっとあの状況のままだよな・・」

 

現象という「結果」の、真の「因」である

自分の心の中の反応やセルフイメージによく気づくのだ。

 

("自分(の現象・結果)は

 他人や世界にもたらされた「犠牲者」"ではないということ。

 

 かといって、予測不可能性というのもエゴ・世界にはあるので

 それを顕在意識ともいえる狭い視点でコントロールできるものでもない。

 =取り消して、委ねるだけ(元祖1式・コースの赦し))

  

 

 

散歩しながら思考停止していると

それはそれは、様々な考えがずっと浮かび続けていることに

本当によく気づく。

 

過去の出来事や、他人のこと、自分を責めること

現状に対する相変わらずな(心理的)反応・・・

 

こういった思考の動きは

何年も前から気づいていたが、いまだにそうだ。

 

然るべき練習・実践をしなければ

そういう思考の働きにきづいたとしても

ずっとそのままなのだ。

 

 

 

 

散歩していると

この平和な日本の光景の中で、穏やかに人々が

無言で通り過ぎていく。

 

自分の内側をこうやって内観する習慣がある人もいるが

それに興味すらない人も多く思う。

 

思考停止なり内観なり

自分に向き合うことをしない方が不自然な私にとって

 

 

それでも楽しそうに幸せそうに日常送ってらっしゃるのが

ふと不思議な感じがするのだ。

  

なんとなく素朴に疑問を感じた。

そしてすぐそれも思考停止した。

 

 

 

ここの所、思考停止に集中していて

スッと、思考停止の安らいだ状態になれる。

 

1さんや実践者たちさんも言っていた様に

思考が浮かんでくるのは仕方がないことで

それに乗っからないこと。

 

そんな風に、気楽に、力を入れずに

淡々と染み渡るかのように思考停止アファをずっと聞いていて

 

本当にそれが自分の中に染み渡っていっているのがわかる。

 

 

1さんは

「コンピューターのバグが蓄積されるのを

 その時その時で除去する」

と例えていた。

 

 

また、なんの例えだったかは忘れたが

 「コップの中の汚れた水も

 一滴一滴真水を入れていけばきれいになる」

といった話もある。

 

淡々と、気楽に、リラックスして。これからもいきたい。

 

 

【日記】他の人への思いは自分自身への思いと同じ

 

先日、趣味にまつわるzoomミーティング後に

(パソコン越しで)初対面の2人に「○○(某SNS)で繋がりたい」と言われました。

  

そのSNSはもう2年ほどアカウントも持っておらず

私の周りでも利用している人がおらず

そのように言われることもなかったので

 

迷ったのですが

 

「こういうこともまだあるのか・・」と

利用する気はないがアカウントだけ作成をしました。

  

結局、同姓同名の方が多く検索で探せなかったため

その理由を伝えて、繋がりをお断りしました。(アカウントも削除)

  

しかし、ずっと胸のあたりがザワザワして気分が悪くてしかたがありませんでした。

 

   

そんなザワザワ・イライラが2、3日程おさまらず

紙に色々理由を書き出してみました。

 

元々その某SNSがあまり好きではなかったのが

理由にありますが

 

こういったことは

SNSだけではなく、リアルでの人との関わり方・あり方と

同じことなので、改めて自分のスタンスを明確にしようと思ったのです。

  

 

「私は本当の自分を表現しているだけでいい。」

「私は楽しくしているだけでいい。」

「自分を信じて(自分とつながって)自分に従ってください。

(私や、他人や、外側じゃなく)」

「自分に問いて、自分を大切にしてください。(それしか言えないし)」

 

etc

 

色々書き出しました。

改めて自分のスタンスを再確認・明確してすっきりしました。

 

 

以前の私は、さほど楽しくないけれど

周りがみんな利用していてしょっちゅう聞かれるため(某SNS最盛期)

また外国の友人達がみんな使っていたため

自分も利用していたこともあります。(海外在住経験あり)

  

ただ、今の私はそこまでして人と繋がりたいと思えないのです。

  

 

   

「(人に言われたから)とりあえず・・」

  

といって、大して好きでもない人(方向性の違う人)と繋がることに

何の価値も見出せなくなっていました。

   

そんな自分の気持ちや価値観の変化に

対応できていない自分がいたために違和感が湧いていたのです。

  

(相手が本当に気が合って楽しくて、連絡手段が限られていたら

 利用していたかと思います。)

 

   

 

自分が成長・変化し

自分自身が軽く明るくなるほどに

 

付き合う人、関わる人、気が合う人が変化するのは当然です。

 

それまで共にいられた人、繋がれた人が

たとえ浅い関係であっても繋がれなくなるというのも当然です。

 

それはとても良いことではないでしょうか。

 

 

しかし私達は、

子供の頃から「みんな仲良く」と言われ

 

特に日本では、大人になってからも

「周りに合わせるために自分を抑える」

といったことが求められます。

 

子供の頃や、学生時代は

たまたま、地域が同じだった・学年が同じだった

それだけで共に集い遊ぶこともできるかもしれませんが

 

大人になって、それぞれの道や生き方を歩む人ほど

子供時代のようなことは到底できません。

 

自分だけでなく、周りも個性をより強く帯びてきます。

 

 

最近の自分は

過去に他人や外側から取り入れた、(自分にとって)不要な価値観というものを

どんどん手放しており

 

時を重ねるほどに自分の本心に気付いてクリアになっているので

余計にそうです。

 

 

「誰とでもそつなく仲良くなれた自分はもう卒業した」

「私は、本当は大勢で何かやるのが苦手」

「精神的に自立した人とだけ共にいたい」

「波長が合う人とだけいられればいい。付き合う人はきちんと選びたい」

「一人の時間が大切」

「距離感を保てない人・馴れ馴れしい人は無理」

「(友人以外は)その時、その時のサラっとした関係性を大切にしたい」

 

 

友達に恵まれた人生を送ってはきたのですが

自分の本質を振り返ってみると

  

冷静で、適度な距離感をもって人と関わることを好んだり

一人でいることが苦ではないどころか、大切だと思っている自分に

年々気づきました。

  

  

  

またここ数年ほどは

コース(ACIM)の学びが進んでいるのも

人との関わり方が大きく変化した理由です。

 

 

なぜ人は、そんなに他の人と繋がりたがるのでしょうか。

 

それは、自分の不安や焦り、恐れを埋め合わせるためというのも

あると思います。(すべての人ではありません)

 

人ととりあえず繋がることで、なにか安心を得られた様な、気が紛れるような

楽しそうな人とはとりあえず繋がっておきたい思いがするのかもしれません。

(それが日常的な習慣となっている)

 

 

ただ、コースなどを通して自分自身と繋がる様になると

そういった心のありようが無意味なことに思えてくるのです。

 

 自分自身と繋がること・本当の自分を生きること

  =神の子としてのアイデンティティ

 

 シンクロニシティ

 内側からのひらめき・インスピレーション・直感(直観)

 楽しく情熱が湧く様な感覚

 に従う生き方

 

 自分の外側は自分が作り出している幻想・夢であり

 自分がこの夢の作り手だ

 という認識

 

 内なる安心(完璧・神)に委ねるあり方 

 

へ段々シフトしていくのです。

 

 

(内側が)満ち足りている人は、求めることがありません。

もちろん普通に食事をしたり、服を買ったり、仕事や社会活動をしたり

溢れる幸せや歓びを表現しますが

  

「欠乏感・不安感・無価値感」から

それを埋めるための行動がなくなっていきます。

   

自分の内側のありようの反映として

物事が起こるままを許しているからです。

 

  

自分を「体」であると思えば

この世界で、他人や世界に対して一所懸命何かを求めるのは当然かもしれません。

私もかつてはそうでした。

 

 

コースというのは、

そういった「体」としてのアイデンティティ

それをリアルにするためにエゴが作り出している「(体を含めた)世界」という幻想の

実在を放棄するためのものです。

 

(エゴは、自分の生き残りのために、私たちに「体」だと思わせるためには何でもする)

 

 

昔の私なら

「私も、辛いとき、苦しいときあるかもしれないし・・

 そういう時のために

 助け合えるかもしれない。慰め合えるかもしれない。」

 

という思いから、乗り気でなくでも

他の人からの「繋がり依頼」を受け入れたかもしれません。

(今回の方々は、そういうところがあったと思うのです)

 

しかし今の私にはどうしても

それができませんでした。

イライラして、胸のあたりが気持ちが悪くなりました。

 

「もう私はそこにいるのではない」

私の心と体が、正直に教えてくれたのです。

 

 

これはコースに基づいたあり方

・自分自身も他の人も、無限の可能性・無条件の愛でみるし

・今後、苦しいことがあっても私はそれを「赦して」いく

ということです。

 

そして、もし個人的に付き合うとしたら

私と同じ思いで、この世界や自分自身や他の人のこともみている

前向きで明るい人々と共にいたいし

 

もうそれしか今の私にはできない

という思いです。

 

 

今の私は

私自身含め、すべての人が

無条件の愛・無限の可能性をもった一なる神の子(神性)だ

と知っています。

(もちろん、私とSNSで繋がりたいと言ってくださった方々も)

 

だからこそ

もし誰かが、自分を卑小で惨めな存在だという思いから

すがってきたり、依存してきたり

そのような行動をとってきた時も

 

愛を持って断ること

 

(Jesusは「通り過ぎるものであれ」と伝えています。注1

  

それもとても大事なことだと思うのです。

  

 

 

中には

自分自身のことを低く思っている人を、

自分の虚無感を埋める相手として必要としていたり

お金を得るために必要な相手として手放さないような

人々もいるかもしれません。

 

しかし、コースは

他人の中の「罪」(自己卑下・罪悪感・無価値感)をも見過ごして

本質をみるべきだと伝えています。

 

他の人の内なる「罪」の表現の一端をになって

相手をすることはできないのです。

  

それは

"相手を信じている"ということ

"あなたは愛であり神であり素晴らしい存在だと知っている"

ということです。 

 

  

そのような「赦し」が進めば

相手の「欠乏感・無価値感・罪悪感」を認知することもなくなります。

 

それは自分の中の「罪悪感」が解体されているということです。

  

 

無意識はつながっているので

結果は見えなくとも、相手の心にもどこかで伝わります。

 

だから、自分の心が癒されているということは

自分にも、周りにもとても大切なことなのです。

自分の持ち場(自分の心の癒し)に集中するのです。

 

 

これは

好きなこと・好きじゃないこと(無関心)の両方を

正直に「本当の自分を表現する」

ということでもあります。

 

私が正直な心から自分を表現していなければ

周りの人も、正直な私から必要なギフトを受け取ることができなくなります。

(行動面や表層意識上で、受け入れる・受け入れないの選択は相手の自由)

  

私が自分に嘘をついて立ち振る舞っていたら

自分の気持ちに嘘をついた結果は

また自分に返ってきて、繰り返されることにもなります。

 

人は、愛か恐れか

どちらかしか選べません。

 

 

コースのレベルでいえば  

自分の体を含め、他の人(他の体)は実在しないのです。

  

自分の中の罪悪感が外に投影され、他の体を「罪」ある様に見ているだけであり

他の人の「罪」を取り消し、実在しないと赦せば

 

それはそのまま

自分の中の、神から分離したことへの罪悪感を解体しているのと同じことになるのです。

(罪は本当はないのに恐れを抱いている)

 

 

他の人を何者と見るかは

そのまま、自分をどう見るかにつながっている。 

 

  

今回、自分が気が進まない他の人からの依頼を

妥協なく断ることの大切さを改めて明確にして分かったのは

  

「もう、私はコースの赦しで生きていく」 

という決意です。

 

むしろ、「もうそれでしか生きていけない」という感覚かもしれません。

 

そして

このように自分を改めて再確認し、気づかせるきっかけになってくださった方々に

心から感謝しました。

 

 

(注1:「不死というあなたの現実」(ゲイリー レナード 氏著)P240

 パーサによるトマスの福音書 42項より)