【ACIM】【元祖1式】ACIMテキストが読みやすくなっていたことについて

私がコース(ACIM)に出会ったのが約8年前。

元祖1式思考停止に出会ったのが約5年前。

 

 

 

昨年、コースのワークをようやく1巡終えた私は

12月初旬から元祖1式思考停止を意識して生活していました。

 

それからおおよそ2ヶ月が経ちました。

 

 

 

 

この2ヶ月の間

 

色々なことが起こりつつも

元祖1式思考停止を意識することが

自分自身の苦しみ(エゴ)の解体に大いに役に立ったと感じています。

 

 

 

元祖1式スレや、元祖1式を肯定的に語るスレの実践者さん達の

言葉を読み返したり

 

108さんという潜在意識掲示板で数年前に知った方の

youtube動画(一部)を観ることもありました。

 

 

 

そしてこの2ヶ月間は

コースに触れることはあまりなかったのですが

 

昨晩久しぶりにコーステキストを読み返してみたところ

 

最後に読んだ時よりもさらに

スーッと心に入ってきて理解できるようになっていました。

 

 

 

1行、1行の言葉が

「そう!そうだよね!」

と、"必要なもの"に感じました。

 

 

 

ゲイリー・レナード氏の著書が好きで数年読み込んできましたので

コースの全体像は自分の中に着実に浸透していたとは思いますが

 

コーステキストを読む際は

まだ少し言葉が難解であるような感覚がしていました。

 

だから、テキストを読むことは結構後回しになっていたのです。

 

 

 

しかし

『元祖1式思考停止の実践』と

『元祖1氏・1式実践者の方々・108さんの言葉』・・が

 

着実にコーステキストの理解を深めてくれていました。

 

 

 

これらの中で一番大切だと感じたのは

やはり自分で『(エゴの解体の)実践をすること』

 

そして

実践を通して

体感・自分の内側から言葉・インスピレーションを得ること

 

だったと思います。

 

 

 

 

自分自身のその歩みを励ましてくれたのが

元祖1さん・1式実践者さん達・108さんなど・・の存在でした。

 

 

 

彼らのことは数年前から知っていたわけですから

 

他の人の言葉をいくら読んだり聞いたりしても

ここまでにはなりませんでしたので

 

やはり自分自身の実践が一番大切ですね。

 

(他の方の体験や言葉を読んだり知るのは初めは大切・有意義ですが

 最終的には実践が必要に思います。)

 

 

 

 

昔は、特別な「修行者」のような人々しか

探究できなかったようなことを

 

今はインターネットで

数年前に直接知ることのない誰かが書き残してくれた

”常識外”な体験や考え方も自由に観て

交流することもできるので

 

本当に便利で助かりますよね。

 

有意義で貴重な言葉をシェアしてくださった方々に

感謝しています。

 

 

 

 

これからも、ネット上における他の方々の励ましの言葉に触れつつ

淡々と自分の道を進んでいこうと思います。

 

Jesusを常に心に。

【言霊】【元祖1式】「私は素晴らしい」「完璧だ」

世の中や他の人々の言動に対してや

過去の出来事に対して

イライラしたりしたときはこう自分に伝えます。

 

 

 

「私は素晴らしい」

「完璧だ」

 

 

 

他人や世界に反応してイライラしている時というのは

この世界・外界の現象をリアルにして

自分をその中の一部の傷つきやすい体としての認識に

同一化しているような気がしたからです。

 

 

もし、自分が完全に自由だったら

イライラするでしょうか。

 

 

これは、深い意味での(コースの語るレベルでみれば)

自己否定である

そう感じました。

 

 

 

 

 

もちろん、ここでは

コース(ACIM)にならって

 

それらは実在しない

自分が作り出している夢のようなものである

 

という認識ですので

 

 

 

自由

 =夢から覚めた実在・神の子・不死のスピリットとしてのアイデンティティ

 

としての意味です。

 

(「この世界の一部の小さな体として

 比較的自由な状況・境遇にある」という意味ではありません。)

 

 

 

 

自分を夢の一部の小さな体としている限りは

常に何かにおびえていくのは仕方がないことです。

 

 

 

コースは、そういった自分の認識を全て放棄していくものです。

(もちろん夢の中で、体として普通に生活をしながら)

 

コースの赦しは行動ではなく、心の領域で適用されるものです。

(行動はその人の心の状態の反映にもなるので

 ここは切り離されたものではないでしょう)

 

 

 

 

イライラした時

 

「私は素晴らしい」

「完璧だ」

 

 

それ以上エゴに乗っかって思考を続けるのではなく

 

自分の真実・今の自分の心の選択、宣言として

この様に自分の心に伝えることをしています。

(=コース・元祖1式思考停止)

 

 

アファメーションはその時々で使い分けています。

【言霊】【元祖1式】「なんとかしようとしなくていい」

元祖1式思考停止をしたり、自己観察をしていくうちに

 

常に心がざわついて胸のあたりが苦しくなるような

その中核には

 

「私は不完全でダメな存在だから・・」

「なんとかしないと!」

「こんなんじゃだめだ!」

「こんな自分じゃダメだ!」

 

ずーっと、絶えずぐるぐるしている

これらの思いに行き着くことに気づきました。

 

 

 

こうして書き出してみると

常に『自己否定』している(=ほとんどの思考)わけなのですが

 

それが『自己否定』であるということに気づかないくらい

なれきって麻痺しているようです。

 

 

 

でも確かに・・

生まれてこの方、ずっとこの思いで生きてきた様な気がします。

 

私が、と言うわけではなく

多くの人がそうではないでしょうか?

 

それこそエゴによる「生存欲求」「生存競争」であり

そのための世界(=幻想・夢)であるということにきづきます。

 

 

 

常に、自分は不完全だ・足りない・これじゃダメだと。

 

エゴはこの世界(=夢・幻想)の保持のためでしかなく

この世界(=夢・幻想)もエゴの保持のためでしかなく

 

そんなエゴ・思考に乗っかり続けていても

エゴは何もしないどころか

私達は苦しいままです。

 

 

 

当然です。

本来、私たちは一なる神の子であり、完全完璧であるのに

 

そこから「分離」したという罪悪感をうずかせ

夢の眠りに落ちているだけなのですから。

 

ただ本来の自分を思い出したい、目を覚ましたいだけなのです。

(本当は今も永遠にその状態であるにもかかわらず)

 

 

 

とにかくずっと心の中で

「なんとかしなきゃ!」「こんなじゃダメだ!」「こんな自分じゃダメだ!」

という不足の声が騒いでいるのを

 

冷静に観察していました。

 

 

 

その思い自体が

私を苦しめているのです。

 

 

 

 

 

”なんとかしなきゃいけない状況・自分が在るからそう思う”

のではなく

 

”その思いが、なんとかしなきゃいけないと思い続ける様な状況をつくりだしている”

のではないでしょうか。

 

 

 

そして

”なんとかしようとしなくてはいけない自分”

などというのは、本来の私たちではなく、「エゴ」です。

「エゴ」に、永遠である自分を同一化してしまっているだけです。

 

それを心で選択してしまえば

私たちは神と同じ創造の力があるので

そういった誤創造(夢・幻想ですが)が為されてしまうのです。

 

 

 

 

だからこそ

「そんな思考そのものを止めてしまえ」という

元祖1式思考停止であり

 

「神側に完全に目覚める」

コース(ACIM)の思考システムなのです。

 

 

 

 

「なんとかしようとしなくていい」

 

というアファメーション

新たに自分に対して伝えています。

 

しばらく続けてみようと思います。

 

【元祖1式】思考することを決めていたのは自分だった

前回のブログ更新から日にちが空きました。

少し忙しい日々を過ごしていました。

新しい勉強を始めてみたくなったりです。風邪もひいていました。

 

 

そんな中でも、できうる限り元祖1式思考停止を続けていました。

数週間の間に、新しい思考停止用アファメーションが浮かびもしました。

 

 

 

「過去なんてどうでもいい」

という録音アファを

ここ数日聞きながら内側を観察していたら

 

 

 

「他人のこと」「この世界のこと」

絶え間なく浮かび続けてくる思考・・

 

それらについて色々思考することを決めたのは自分だ

というアイデアが浮かびました。

 

 

 

思考にあまりに慣れすぎてしまって

勝手に浮かんでくるものの様に感じていますが

(当たり前の前提であるかのように)

 

実は、『思考を巡らすことも自分が決めた信念だ』

と言う感覚になったのです。

 

 

 

なぜ?

 

それは長い間

自分を小さな体だと信じ

この世界を真に受けて

 

常に警戒し、怯え

自分の生存や、幸せのために

 

考え、対策し、なんとかしなくてはいけない!

と自分自身に決め続けていたから。

 

 

 

 

もちろん、料理したり、外を歩いたり

必要最低限の思考は必要ですが

 

それ以上に

「なんとかしないと!」と

「思考しないといけない!」と

 

自分に強い続けていたのは自分だったのです。

 

 

 

 

思考が絶えず浮かび続けてくることは

もう当たり前の決まり事の様な感じでした。

 

でも、これも単に「信念」にすぎない

つまりは、自分で取り下げることができるということです。

 

 

 

 

だから

まるごと思考を全て止めることを

元祖1式思考停止では推奨しているので

当たり前のことかもしれませんが

 

自分にとって実感をともなった新たな、かつ大きな気づきでした。

 

 

 

思考停止した状態を感じる時間が

積み重なってきて

認識が変化しつつあるのだと思います。

 

 

 

 

上述のように

 

「なんとかしないと!」と

他人やこの世界のことを思考しつづける。

そうしなければ、怖くて不安でしょうがない。

 

それは「不足」以外の何ものでもないような気がします。

(「分離」などともいえるでしょう。同じことですが)

 

 

 

 

だから、コース(ACIM)や聖書でのJesusも

「他人を裁くな。裁かれないためである。」

と述べているのではないでしょうか。

 

 

 

「他人を裁くな=ゆるす」の「ゆるし」とは

 

「寛容なこころであなたの罪を水に流して忘れてあげましょう」

ということではなく

 

「そのできごとは起こっていない(=心の投影である)」

(ここには、もちろん「他人・からだ・世界」の存在も含まれます。)

 

なぜなら私たちは、分離・不足などありえない

全てが満ち足りた一なる永遠の存在だから。(=元祖1式思考停止状態)

 

 

 

自分で作り上げながら

「自分の身に起こっている!」と恐怖に怯えている夢から覚めることを

Jesusはコースを通して私たちに伝えているのです。

 

 

 

 

 

以前は、胸のあたりのもやもやが

漠然と居座っていて

 

それが何なのか分からないけれど

とにかくザワザワ苦しい感じや

怖さやイライラが込み上げてくる感じでしたが

 

 

思考停止を心がけ続けることで

その大きな黒い塊に思えていたものが

少しずつ解体されていくのを感じています。

 

 

 

潜在意識系の掲示板でどなたかが書いていました。

 

「手を離すのが怖い!と思っているけれど

 下はウレタンマットだから大丈夫だよ。」

 

「自分で考えない方がずっとスムーズに

 そして自分が考えていた以上に全てがうまくいく。」

 

「思考を止めることの恐怖に打ち勝った人は

 大きく飛躍する。」

 

 

そのことが

体感・実感として私のなかに染み渡っていっているのを感じます。

【元祖1式】 放蕩息子の譬え(コース・日記)

先月から元祖1式思考停止を進めていたら

年末に(エゴ的には)「問題」と思える出来事が起こったことを

以前記事で書きました。

 

 

 

その出来事に関する作業を

いまも進め始めている所ですが

 

その間に

過去の出来事・我慢し続けていた記憶・感情や思い・・

様々な思考が浮かんできています。

 

 

 

思考に乗っかったり、思考停止アファをしたり

行き来しつつも

何故か体が楽になっていっていることに気づきました。

 

胸のざわざわはすごかったですが

不思議に思います。

 

 

 

 

かなりのザワザワと記憶・思考が噴出しましたので

数日ブレインダンプもしたのですが

 

以前だったら

ブレインダンプをしてすっきりしつつも

やっぱり思考や"現実"に飲まれたと思います。

 

ブレインダンプもとても効果的だと思います。

やらないよりは、(私の場合)やったほうが

思考の浮上や解体が進む感じです。

 

私の場合はブレインダンプから

インスピレーションを沢山得てきましたから。

 

 

 

ただ、それに加えて

思考をこねくり回さずに

 

 ・思考(エゴ)とは別の領域

 ・神

 ・完璧

を理解し、実践・体感。

 

そちらに自分を起き続ける時間を増やしたら

楽だということに今は気づきました。

 

 

 

元祖1式思考停止もそうですが

 

その『別の領域(神)に"委ねる”』

という意識もあると

 

無条件の幸せの感覚が掴みやすいのだと思います。

(これも、淡々と思考停止していれば

 自然とそうなる(委ねる感覚になる)と思います)

 

 

 

昨晩、お風呂でくつろいでいた時に浮かんだ感覚がありました。

 

私は、昔から

「(くるしい状況から)逃げられない」

という思いがありました。

 

最近その感覚が再び浮上し

俯瞰しながら思考停止をすすめていました。

 

 

 

 

お風呂中も

「逃げられない!」「どうしよう!でも逃げられない!」

「私はなんてダメなんだ!」

 

という、エゴの声が沸き上がったので

 

観察しながら

『 何も考えなくていい。神の完璧があらわれる。』

『 私は愛されている。』

 

そう唱えました。

 

 

 

すると・・

 

「あ・・、逃げ場はあった」

「本当の意味での、真の逃げ場は

 神しかなかったんだ・・

 (↑思考停止で体感している領域)」

 

そう気づきました。

 

 

 

コース(ACIM)や元祖1式思考停止など

霊性や、高度な潜在意識の学び(←引き寄せ云々レベルではなく)

がなければ

 

それを知らなかった子供の頃の私も

それ以降の大人の私も

 

そんな大切なことに

気づけるわけがないのは

当たり前だったのです。

 

 

 

一所懸命、この世界のレベルで

なんとかしようと疲れ続けるのは

当然だと。

 

 

 

 

もちろん、コースや元祖1式思考停止系の知識がなくても

自然体で、その幸せの領域の認識にたって

生きている人はいると思います。

 

でも、その様な人は現在は

少ない様に思います。

 

 

 

コースに出会ったのが8年くらい前。

元祖1式思考停止に出会ったのが5年前くらいです。

 

頭で理論はわかっていても

ずっと苦しく、この気づきの感覚にはなれていませんでした。

 

 

 

正しい言葉で言えば

 

「逃げ場があった」のではなく

 

私たちが、【完璧】の状態(神)から

逃げようとして作り出したのが

この世界であり、エゴ・思考なのです。

 

 

 

いまでも、自分の本質の部分は

【完璧】の領域で安らいでいるのに

 

その【完璧】な存在が

 

「個別な体として一喜一憂し

苦しい世界で生きている様な夢」を見ているのが

 

私達の本当の姿なのです。

 

 

 

 

聖書にもある放蕩息子のたとえ。

 

聖書は後世になって

追加されたり変更された部分が多くあるそうですが

 

放蕩息子のたとえは

Jesusが実際に使ったものではないでしょうか。

(ゲイリーレナード氏の本にも出てきます)

 

 

 

 

放蕩息子の譬えとは

 

 豊かな父のもとで

 何不自由なく育った男性が

 財産をもらって

 

 外の世界へと出ていき

 散財しひもじい思いをしていたところ

 

 自分の父の家を思い出し

 恐る恐る家に戻ると

 

 父は叱るどころか

 「死んだと思っていた息子が生きて帰ってきた」と

 祝宴をあげた。

 

というものです。

 

 

ja.wikipedia.org

 

 

 

 

この譬えの意味を

 

コースはもちろん

元祖1式思考停止も

 

実感・体感として私に教えてくれるのです。

 

 

 

 

元祖1式思考停止実践者の方も言っていました。

 

 「そもそも私たちは

  本来最高の状態にいるのに

  思考をめぐらすことで 

  だんだんと(苦しみに)落ちていくのではないか」と。

 

 

 

 

これからも

淡々と思考停止を続けていきます。

 

 

【言霊】続 「私には関係ないから関わらなくていい」(元祖1式思考停止)その2

(2021.01.05(昨日)記)

 

昨日、【言霊】「私には関係ないから関わらなくていい」(元祖1式思考停止)

という題名の記事を上げました。

 

この言霊(アファメーション)は

「他人にまつわる思考」を停止するのに

今の私にちょうどいい言葉だったので使用しています。

 

 

この音声アファを聞いていて

様々な記憶と、気づきが起こっています。

 

そのことについてメモをしておきたいと思います。

(今回は個人的な内容が多くなります)

 

 

 

気づきは大きく以下2つと言えます。

 ① 自分らしさを否定した過去の記憶

 ② 偽りの自分を演じるのをやめることへの恐れ

 

 

***************************

 

① 自分らしさを否定した過去の記憶  

 

 

私は、幼少のころから

意識や自分の考えがはっきりしており

大人と変わらず周りを冷静に観察していて

 

かつ直感的なものもすぐれていたので

周りの状態や考えていることを読み取ることに

とても長けていた子供でした。

 

 

 

記憶力もよかったので勉強もできて

友人たちとも誰とでも楽しく

外を駆け回って遊ぶ子でしたが

 

 

 

こどもらしからぬ落ち着きがあったために

 

周りの一部の大人から

「反応が悪い」

など否定的に度々言われたり書かれたり

 

アピールが上手な子たちが

どんどん目立つことで大切にされ

 

私とは態度が違っていて

大切にされない様に感じられた時期があったことを

思い出しました。

 

 

 

また

今は少しずつ世間の価値観も変わってきているかもしれませんが

 

私が子供の時は、学校でもどこでも

褒められるということがほとんどありませんでした。

否定的な言葉が多かったように思います。

 

(日本の文化は往々にしてそうですが。

 人を褒めることを教えられることもありませんでした。

 今の子供達はどうなのでしょうか。)

 

 

 

今思うと

子供の個性を尊重できず

 

自分勝手な「こどもらしさ」の理想像を

押し付ける様な言い方をしていた大人達の

不安や未熟さ・おかしさがよくわかるのですが

 

 

 

そういったことへの

違和感を当時感じつつも

 

子供なので周りからの否定的な言葉を真に受け

 

否定的なことを言われないように

気を遣っていることが多かった様に思います。

 

 

 

 

また内面が成熟した子供だったため

  

 

無意味な争いを繰り返し続ける大人たちを

一所懸命宥めたり、なんとか仲を取り持とうとしたり

自分が視えている解決方法にそれとなく導こうとしたり

 

周りの大人たちのレベルに一所懸命話を合わせてあげたり

 

 

 

そんな気もないのに

子供っぽく振る舞うことで

その場の空気を和ませようとしたり

 

常に自分のことは後回しにして

その様なことばかりせざるを得ない子供時代でした。

(環境的な理由)

 

 

  

 

経済的に自立できないが故に

「相手にしてられん。さよなら。」

と立ち去ることもできないままに

 

周りをなんとかしないと

自分が落ち着いて生きられない

 

という状況にあったからです。

 

 

 

そして、自分の

鋭い直感力や、サイキックともいえる能力を

この様な人々をなんとかすることにずっと使い続け

 

「自分のことができない!」

というような思いがあったことが

思い出されます。

 

  

 

 

大人になったいまなら

堂々と自分に伝えられます。

 

「落ち着いていて冷静で穏やかな人間であって何が悪い」

「素晴らしいことじゃないか!」と。

 

 

 

 

こういった人生・思いだったからこそ

今の私には「他人にまつわる思考」を停止するのに

 

「私には関係ないから関わらなくていい」

と言う言葉がしっくりくるのかもしれません。

 

 

 

「遠い遠い埋もれた記憶」というのは

人それぞれのストーリーがあることと思います。

 

(だからアファメーション

 自分に合うものをその都度つかうのがいい)

 

 

 

それが今回

「他人にまつわる思考を停止」をすることで

 

漠然とモヤモヤしていた未解決だった思いが

俯瞰の視点から

クリアに浮かび上がって視えてきました。

 

 

 

そして

もう、そんなもの要らん

 

冷静に捨てることができています。

 

 

***************************

 

② 偽りの自分を演じるのをやめることへの恐れ

 

 

大人になり霊性を自ら探求する様になってからも

 

 

「これ(霊性探究)こそ、自分らしくて楽しさ感じるんだけれど・・

 

 あまりに霊性を探究しては・・

 

 生活ができなくなるのでは

 人とうまくやっていけなくなるのでは

 仕事ができなくなるのでは・・」

 

 

という思いがあったことも

 

元祖1式思考停止をすることで

クリアに気付きました。

 

  

 

・自分らしくあること

・エゴや不要な信念を放棄すること

・自分の好きなことを探究すること

 

を恐れさせるのも、エゴである

 

と今の私ならわかります。

 

 

 

他人に合わせることや

生活などの心配をして

この世界に意識をとどまらせようと

 

常に気にさせる(恐れさせる)ことこそ

エゴの存続合戦であり

 

もし私たちがそのエゴのささやきにのっかったとしても

エゴは何もせず、ただ苦しみの状態にとどまらせるだけなのです。

 

 

 

自分らしくあることが、どうして自分を不幸にするでしょうか。

自分らしくあることを拒絶することが、どうして自分を幸せにするでしょうか。

 

 

 

自分らしくあることができなかった

過去の記憶などをあてにしてしまえば

 

ずっと過去(エゴ)のパターンの繰り返しです。

(本来、過去など存在しない。

 いま恐れを選択しているというだけ。)

 

 

 

 

いまの私は

「神」「神の完璧」との繋がりを大切し

信頼する部分が

心の中に広がり続けているので

 

そのエゴのまやかしが冷静にわかります。

 

 

 

そういった神・本当の自分・別の領域への信頼がなかったら・・

 

元祖1式のいうように

just do it 、実践あるのみ!と

淡々とエゴの声を捨てること、手放しも

できるかもしれませんが

 

人によっては

心許なく感じ

エゴの声に乗っかり続けてしまうことも

あることと思います。

 

   

 

 

1式実践者の方が言っていた言葉が好きです。

『思考停止は「設定を0にする」』と。

 

淡々と元祖1式思考停止を

続けていきたいと思います。

 

 

 

 

【言霊】「 私には関係ないから関わらなくていい 」(元祖1式思考停止)

元祖1式思考停止をしていると心が楽なので

「とりあえず年末まで集中的にやる・・」と思っていましたが

 

年明けも引き続き行っています。

 

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その中で

いつも「他人のこと」を思考してる自分がいるのに気づき

 

その思考を停止するための新しいアファメーションとして

 

私には関係ないから関わらなくていい

 

というものが浮かび、

ここ数日音声アファとして

リピート再生して聞いています。

 

 

 

アファメーションは、自分に合ったものを

自分で決めるのが一番です。

 

 

「 私には関係ないから関わらなくていい 」

というアファメーション

 

初めは特定の人々にまつわる思考にむけて始めたものでした。

(関わりが多かった今は縁のない人々向け)

 

しかし私の場合

「他人にまつわるすべての思考の停止」に有効だと気づき

聞き続けています。

 

 

 

「 私には関係ないから関わらなくていい 」

とはいっても、もちろん、日々色々な人に出会います。

 

買い物をしてもそうですし、ネット上で出会う人々もいます。

 

元祖1式の実践者さんたちが言う様に

また、コースでJやマスターたちが言う様に

 

普通に日常生活は送るのです。

 

 

 

元祖1式の目的は

歩く・運転する・・など

日常に必要な判断は当然しますが

 

そこで色々妄想したり、延々と過去や無意味な思考をしていること

もしくは五感から思考を発生させて振り回されていることを

停止するということです。

  

 

1式実践者のとある方が書いていて、わかりやすいと思ったのが

 

読書などをするときは「イベント」として楽しみ

それが終わったら、そのことについてあれこれ思考しない。

というものです。

 

 

 

 

 

私と関わりが深かろうが、浅かろうが

思考は全てとめるのですから

 

 "思考として浮かんでくる全ての人”に

採用していい

 

つまり「他人すべて」に採用していい

と気づいてからは

 

 

 

「他人のこと」が思考として浮かんでくると

苦しさや楽しさや・・

 

様々な感覚にのってしまいがちだった自分にとって

 

このアファメーション

とても心を楽にさせてくれるものになりました。

 

 

 

と同時に

 

いかに自分が「他人」にばかり囚われて

「私自身」をないがしろにしていたか

ということも、よくわかってきました。

 

 

 

次々浮かび上がってくる記憶・思考を

アファメーションとともに冷静に俯瞰・観察していると

 

 

 

生まれた時から、幼少時代から今に至るまで・・

 

いかに自分が

興味もないことやこの世界にまつわる

ありとあらゆる事象を

 

自分のことの様に、個人的にうけとることを

強制され続けてきたか(←この世界のレベルで言えば)

 

ということに気づいたのです。

 

 

 

興味ないことでも、嫌なことでも、嫌な相手であっても

 

話を聞け、覚えろ、これをやれ、言うことをきけ、言われた通りにやれ・・

 

こんなことがあった、あんなことがあった

 

自分たちにもその様なことがおこる、恐ろしいぞ、怖いぞ・・

 

 

 

そんなふうに刷り込まれ続け

それを大人になっても、いや生涯にいたるまで

引きずり続ける・・

 

「あの人がああ言った」「この人がこう言った」と。

 

 

 

それも個人の選択だからいいですが

 

では、そういった外側に気を取られている間

自分自身に対して何をしているのか?

 

 自分を蔑ろにし

 他人のことばかりに気を取られ

 自分自身を怖がらせたり、脅したり

 外側の言うことばかり信じて

 違う自分になるために、他人に気に入られるために

 自分に厳しくしたり、何かを強いたり・・・

 

そんなことばかりしてきたのではないだろうか?

  

 

 

「 私には関係ないから関わらなくていい 」

 

と「他人にまつわるすべての思考」を

止めるアファメーションをすることで

  

そういった自分の心の状態が

クリアに俯瞰して見えてきたのです。

  

 

もちろん、ここまでくればよく分かりますよね。

その心の中のイメージ・状態に相応した現実が

投影されるのです。

 

そして、延々と同じ思考をし続けて

自分のことは蔑ろしされたまま漠然と苦しむ。

 

 

 

 

こういったあり方に

なんの疑問ももたない方

苦労・苦しみが人生の当たり前・そういうものだと思う方も

いらっしゃるのはわかりますし

それは尊重します。

 

 

 

ただ、そういった世間の「常識」に

自分の正直な気持ちが合わず苦しんでいる方は

わかっていらっしゃると思います。

 

 

「自分には、この世界で本当にやりたいことがあって生まれたはずだ」

「自分は、自分らしく幸せにあってもいいし、そうありたい」

「自分の本当の思いに正直にいきたい」と。 

 

それには

自分と向き合い、自分を大切にし

自分自身の声(インスピレーション含む)を聴く必要があるのです。

 

 

 

 

「私は一体・・何をしていたんだろう・・」

 

外側にばかり気を取られ

自分のことを疎かにしていたこと・・

 

脱洗脳にも近い感覚を覚えると同時に

体のどこかが少しずつ緩んでいくのも感じられました。

 

「他人」という、いつのまにか背負い続けていた

自分に不要な荷物を下ろしているからでしょう。

 

 

 

 

 

 

また、

「他人にまつわる思考」は

 

当時の自分の

感情や、不要な信念の投影でもあるわけです。

(今も内側で思考・記憶として持ち続けている)

 

たとえばお金や愛や・・

何かに欠乏や不安を抱いたままに出会った人々との関係性や状況は

欠乏や不安を象徴したままで終わっていることが多いのは

 

容易に推測できるのではないでしょうか。

 

 

 

ただし、自分の内面が変化し

もうそのような恐れの状態が無意味だと気づいている場合

 

安心(愛)と恐れ(古い信念)が混在しているような心の状態のまま

 

安心(愛)に足場を置きつつ

 

いま、この瞬間に

自分のことを再定義・再選択できるのです。

(心の中での断捨離とも言えるでしょう)

 

 

 

 

 

1さんもおっしゃっていました。

コンピューターのバグを少しずつ取り除いていく様なものだと。

(バグが消えたら、「完璧」が現れるだけ)

 

 

 

「 私には関係ないから関わらなくていい 」

と、「他人にまつわる思考」に対してアファメーションすることは

  

その当時、自分が選択した状況や感情、不要な信念に対しても

 

「要らない」

「私は神の完璧に委ねるから」

「関わらない」

「もうそのような人生は要らない。」

 

と宣言しながら、取り消しているのと

同じことであることも気付きました。

 

(他人は自分自身の投影ともいえる)

 

 

 

 

 

私にとって

 

浮かんでくる過去や不足・欠乏の思考に対して

「 私には関係ないから関わらなくていい 」

 

と宣言することは、同時に

 

私は神の完璧にゆだねる

と宣言するのと等しいことです。

 

(先にも述べましたが、これはあくまで私の感覚です。

 人それぞれ自分に合ったアファメーションを使うのがいい

  

 

 

そのために

体にも反応が出て

緩んで軽くなっていくのを感じているだと思います。

 

 

今後も続けていこうと思います。